嫁聴け
犬は吠えるがキャラバンは進む
小沢健二 (1993)
パブリック・イメージ。ある種の誤解でありながらも、完全に否定されることのない虚像。固定されてしまった実像という虚像の土台、礎となる部分を知ることで、更なる、また想像だにしなかった姿を発見することになる。
軟派に笑い、微笑み、幸せな世界を歌うシンガー、小沢健二。 「ラブリー」今「夜はブギーバック」 といったルーズなテンポ、そのイメージで捉えている人も多いことだろう。 「カローラUに乗って」 は世界の完全なる構築には非常に打ってつけの一曲だった。そして 「小沢健二」 というアーティスト像は多分にイメージ先行となってしまった。
ハッピー。幸せであるということ、それはその陰となって踏みつけられている物、越えてきたものがあるからこそ引き立つ。澱み、色すら持つことのない部分を有するからこそ、陽を求め、それを歌おうとする。その代償として、真の部分を語るべく、同時に沈める色彩を歌わなくてはならない。自作された歌のコレクションの中には、際限なくマイナス極に寄り添った形も提示されていなくてはならない。それは光の創作者が必ずもつ背景。背骨になる部分をこのアルバムの中で、イメージが作られる以前に小沢健二は提示している。だからこそ以降の曲は、全てにおいて幸せなのだと言いきることもできる。逆にそのように考えない限り、あまりにも抽象的な、黒塗りの薄紙による一瞬の接触で皮膚を切り、色に侵されようとする感覚を、現実的な 「歌詞の世界」 に表面化させようとする字面が生まれる説明付けができない。
「街で深く溺れ死んで」 行く自己、それでもいつかは 「暗闇から涙を拾」 い、 「夜明け前の弱すぎる」 それでいて確実な 「太陽の光は降り注ぐ」 ことを信じられる。それは闇を知らない限り、絶対に生まれることのない念である。あるはずのない地底から引き上げられて行く際の、あまりにも重い浮遊感を、曲の進行と共に味わい行く。それは正直であることの照れ隠しなのかもしれない。自分の正しさを、そして自分が持つ 「陽」 を曝け出すことの。
何か一つ知りたいことがあるのなら、その対岸に身を置くとよい。隠されてしまった、当然だと思われていた姿、すなわち実像、解答は目前に据えられていたことに気付くはず。
*1997年 『dogs』 と改題して再リリース