嫁聴け

beauty and harmony

吉田美和 (1995)

音楽が与える力。その音に没入するシチュエーションによってその力は大きく異なる。時間の影響は特に大きい。音は空気を振動させる波。時間と共に変化する波は光。二者の干渉は常に行なわれる。同じ会話を昼にするのと夜にするのでは、そのニュアンスが微妙に異なってくるように。音は時間にも支配される。

たとえば日記。夜に記される活動記録。それは肉体による動的な活動と、それに伴なう心の波を記す行為。夜が、自らを書き留めるために用意された時間であるのならば、記そうとする衝動は、光という時間の波に干渉されている。

時間、光、波、音。それぞれがそれぞれに、グラデーションとしての連携を持ち、同時に独立して行く。そしてその全てを夜が呑み込んでいるならば、吉田美和の世界もやはり等しく夜なのだ。

決められたメロディに縛られることなく、跳ねてゆく音符。演奏も、不粋なケースにそれを閉じ込めようとしない。ジャズという言葉にイメージされる世界との類似。沈み、浮き、それらの動きが作る軌跡は必然的に波を描きはじめる。誰にとっても、中心、等距離にある波を。それは自分を描こうとする日記。記された独り言、秘め事。気が付くと引き込まれている夜の波は、乾くことがない。個人の世界はそういう物なのだろうか。体が、波を作り出す水に支配されている以上、それは当たり前以上に当たり前のことなのだろうか。ジャズはウェットだ。人間の生理へと近づき行く。何も介さない楽器である声を使えば、さらに近く。満ちるに連れ、波紋は遠く、遠く広がり、映る月を歪めて行く。が、本体は変わらずにそこにある。それぞれが個であり、常に組となる和でもある。

互いが互いに還元し、つながりを持つ。強く対象付けられた愛であっても、それは個を下に発しているように。詞を音に載せ、自らの掌に操る行為は、精神的な波を外に発することであり、本体から放たれ、遠き頂を臨み、一人湿る個へと帰ってくるまでの循環である。投影された波は、歪む。しかしそれも本体。

人としての波をしたため、開かれた日記。それを記す人物と、昼間の自分が決して切り離せないように、発し、戻ってくる日記。起点であり終点。同じであり、切り離される点。全てを呑み込んだ点。音符の波が、その点を形にし、映される波を射る。夜の波に縛られた日記を開いて行く。