嫁聴け

Treaure

B'z (1998)

仮面の下に本当の自分の顔を隠して過ごしている。そんなありがちな発想に納得できるほど、わかりやすい日々を送っているわけではない。その下に置かれているものは、簡単に言葉として固定できるものではなく、持ち主である本人が説明するのも難しいくらいに−言葉にすればするほどに実像から遠くなるという普遍的な背景を伴って−複雑に思えてくる。それでも具体的な、より 「近い」 言葉を選ぶとするならば 「越えようとする対象に挑む顔」 ということだろうか。これをクサい言葉だと感じるのは、そこに実感がこもっているからだろう。

「僕ら」 という共通項、共通項であるという事実、そのこと自体にも、たまには直面しなくてはならない。わかりきった解答に数多く接しており、それが真実ではないとわかっているのに−わかっているからこそ− 「私には誰にも見せたことのない顔がある」 などと洒落て、いや、うそぶいている。事実から目を背けることに慣れているのは、事実を認めていることに他ならない。ノンフィクションを知っているから避けて行く。そして大樹に寄りかかる安心感をおぼえている。

一面でしかないものはありえない。実像は全て三次元においてであり、たとえ意識や思考などという抽象的な存在であっても、それが時間に支配されている以上、やはり多局面の中に身を置いていることを認めなくてはならない。夜中に一人襲われる現実や恐怖は、仮面に隠しておきたい素顔だろうか。これらも自らを形成している面のその一部でしかない。しかし一部が全体を構成している以上、人を形作っている顔の表面であり裏面であるような微妙な位置づけにある表情は、もしかしたら僕らの 「抱えている」 負担なのかもしれない。だからこそ 「私だけが知っている自分の顔」 などと言いながら、その存在を肯定し、他者に認めてもらおうとする。曝け出そうとしている。

裸になるのは恥ずかしい。でも見てもらいたい。比べてみたい。見せてくれる存在があったならば、積極的にそこへと近づこうとする。歌詞には不思議な効力がある。作者の有するフィクションであろうとも、聞き手は現実として捉え、取り込み、共感しようとする。部屋の中で口ずさんでみては、途中で言葉を失い涙と変える。空の下で聴いてみては、次の一歩への活力に変えようとする。仲間内の狭い空間ではその力を借り、代弁であることを認めながらも、僕らはそこに触れようとはしない。仮面は隠すためのものではなく、透かして見せるためのフィルタになる。屈折させられた光で見える真実もあろう。

気がついている。それが現実に生きる上で、誰もが持っている顔だということに。こう見えても何かに向かっているのだという強さを見せつけ、その反動を確かめ合い、擬似的に肩を組み、横並びに歩こうとしている。一部というカケラをばら売りしても、自らのどこか一ヵ所だけは一人占めしているからこそ、それを認めてくれる歌を求めようとする。踏破しなくてはならない道を見据え、歩を進めようとするからこそ、与えられ、費やしてゆく時間と引き換えに表情を創り出す。自分だけの次元を作り、向き合い、肯定し、認める為のカンフル、むしろ字引として歌詞を利用する。

昇華された時、新たな表面がそこに生まれたことに気がつき、また次なる、新たな顔へと叱咤できるほどに強くなる。だから、それまでは顔を隠し、一人で向かい合って歩いて行く。たまにその力を借り、素顔を生かす仮面に透かしながら。誰もがそうであることを知り、安心し、それでいても一人である時間に立っていることを認めて。