嫁聴け

THE BREASTROKE

coaltar of the deepers (1998)

あらゆる創作物とはつまるところ自分にとってのポピュラリティに 100% マッチした物に関してのみが称賛の対象となるのであり、内在しないところに位置する評点を取り入れた上で善し悪しを定めるという行為は愚行の極みとも言える。言い換えるならば自らの好きな音楽という創作物に対しては、自信を持ってその愛を語って語って語り尽くせ、と。他者の介在を気にする必要はない。

自分にとっての 100% として取り込む作業を終えたならば、以降は自己内評価でのみ物を語れ。引き合いに出されるべき他者は思考の踏み台としてのみ利用されるべきであり、誹謗中傷の対象とするなどはもってのほか。受け入れることのできない血液型のように相性の隙も許されない成分を取り入れ苦悶することは自虐の極みであって、ましてやそうしてまで毒を吐き出し続けることで自らのモチベーションを摩耗させるなどという、笑うことすら出来ない道化は単純にアホらしいとしかいいようがない。摂取しうる対象は、取り入れたものの脳内において純化されるべくして摂取される。この第一前提を放棄しようとするならば、それ以上先を読み進める意味はない。地球上にある全ての創作物、音に感情を通すことなどは不可能である以上、接触媒介として第三者の評価を利用することに関してはやむを得まい。ただし、一度その音を自分の物とする、自分の耳に入れてしまったならば、契機の実として最初に摂取した他者評価は、ロケットが真っ先に切り落とすパーツのように海に投げ捨ててしまえ。

音楽との概念的な距離を掴んだならばチャンネルは次に切り替わる。目に見えず逃れることのできない発信体。大気はおおよそ電波に満たされ、ヒトは喜怒哀楽に満たされる。喜怒哀楽に支配され、喜怒哀楽を飼い慣らしながらヒトは生きる。それが瞬間々々に切り替わるザッピングどころの騒ぎではなく、分離されて存在しているはずの全てのチャンネルがモノミックスダウンされてしまった視覚として突きつけられたのならば、ヒトはそれを忌避するか、もしくは遡及のルートを見破るかという二者択一に対峙する。存在自体が不可解なのだ。

第一の解答、ヒトは考えることを面倒であると判断する。受容は、ヒトとして容量の無駄遣いであると判断される。だからこそバイパスを作る什器は操られ続け、旧道は時間を捨てて寂れ行く。

だがたとえミックスダウンされたビジュアルであっても、それを前にした個々各々の目には、一つ一つが別チャンネルであるという事実は明確に理解される。仮に分析を強要されたならば、普段は使うことのない、むしろ使う必要がないように出来ているはずの細胞を駆使し、必要もない状況において、開く角度に限界を持たない分娩台に左足と右足とを固定されたかのような危機にさらされたとあっては、まずは回避されなくてはならない身体の物理的分離に対して、赦される限りの猶予は全て使い切って抵抗するのである。ところが分離しようにも、最初につきつけられたビジョン、卓上に置かれた混合物は、たとえ源としてあった時には独立していたとしても、その実、物体ただ一つのみである。

この細胞の活性化を本能的に拒絶するか、もしくは好奇心ないし、形成された本能という言葉にすり替えられてしまった各々の思考体系がそれを拒むことなく受け入れてしまうかという、科学とオカルトの境界線を中間値の許されないジャッジとして求められる舞台に放り出されてしまうからこそ、ヒトはそこに混乱という文字で演技を繕ってしまおうとする。これによって第二の解答を目前にリタイヤ。

使う必要がないくせに準備はされているという厄介な能力がヒトという生き物に存在するが故、個性という単語で納得させなくてはならない個体差を生み出している事実。ここにまで足を踏み入れ下界を見下ろさないことには、感覚に左右される現象に言葉を割くという賭博行為に対し、勝ちを得ることはそう容易くはならない。そして老廃物と酸素の交換作業に失敗しながら、ヒトを司る脳は妄信に取り込まれてしまうのだ。これらの言葉と音との置換作業に成功したならば、次にそれを説明するためのコンテキストとすればよい。モノミックス以前のソースは、独立してしまえば自分における視聴率 100% 。見ず知らずの他者が作り出す測定閾未満の数値は、底辺以外の視覚を知らずに生涯を終えるゼロにも等しい。ゼロに分割の権限はなく、またゼロを責め立てる他者は不可視を可視とわめき立てる妄想に取り憑かれている。しかし RGB の混合はゼロではない。ソースは RGB なのだ。