嫁聴け
(オマエもこの気持良さにやられちまいな)
止マッテタマッカ -DLRMX-
Lunch Time Speax (2001)
「何かをしてみようとか、漠然とでもいいからスタイルを描こうとか、してみたことある?」
同じ口から何度も聞いた、その質問にはすっかり飽きた。そして訊ねられるたびに、ふて腐れて否定する自分に嫌気がさし、そして何も持ち合わせていない事実への、生ぬるい不安に覆われた胸が汗をかく。思考停止状態になっているわけではなく、どこを振っても何も出てこない。誰もがその名前を知る巨大な企業の、その巨大な本社ビルの傍らで、たたでさえ小さな身体を縮こませて呆然と立つ。
トラックの荷台から慌ただしげに荷物を下ろしている、運送業者のボーダーシャツに浮かぶ汗が快活に映り、三十分前の自分の軽さとの対比に目眩を持ち込む。
電話口の向こうは、僕を責めているわけではない。が、この歳にしてビジョンなるものの欠片も持たないことは、人として、最低限の思考機能すら放棄しているような気にさせられる。それはどこで植え付けられた強迫観念なのか。それとも、コンクリート過多に陥った東京の一部が、当り前だという顔をして終日送り込んでいる可聴電波か。
空虚といえるほどに病んではいない。与えられ過ぎたゆえに、不感症になっているだけだ。その自覚の中で、何かないだろうかと探し渡り歩いた。そしてたどり着いた土地を離れ、止めることもできずに次から次へと忘れてしまった。隣に並ぶエレベーターは、この足元と地下とを結ぶ。三年前に散々通い詰めていたはずの駅が、結ばれた先に広がっている。だというのに、今日、再び訪れるまではすっかり忘れられていた。自分の跡すら他人事だ。
それ見ろ。他人事さと、身軽さに堕ちた結果がこれだ。スタイル、プラン、ビジョン。この地位は自分の力で勝ち取った、そう言い切ったいつかの上司の顔だけは、今でもフラッシュバックの悪心を引き起こす。つまりは気持ち悪さに対し、迂遠な位置に立っていようと専念していた日々が今に至るのだと。
切ることもできず、惰性で繋いでいるライフライン。その向こう側から聞こえてくる言葉は、もはや記号にもなりはしない。都合のよい記号を集め歩き、都合の悪い暗号は身体につくそばからむしり捨てた。苦いものは食べられる。目に毒ならば目を伏せる。まだ路肩に止められているトラックには、もう何度もボーダーシャツが出入りして、速度制限を無視したアリのように働いて働いて、いつまでも働いている。あのシャツが吸い込み続けた汗の重さと、このワイシャツに染みこんだ汗の重さを比べるナンセンスを、否定できなくなってしまった。感傷を許してしまうほどに緩んでしまった毎日、その結果の今。
「明日また考えるよ。今日はもう終わりだ!終わり!」
返事も待たずに叫び切り捨てた言葉は、明日へのとりあえずの持ち越し。いつかの言葉に比べれば格段に進歩している。もう、がむしゃらに走り出せるほどの怖いもの知らずにはなれない。そもそも、がむしゃらなどという行動パターンは、はなからこの身体には記録されていなかった。一晩頭を抱え、酒を食らい、記憶を失いながら傍迷惑な言葉をばらまき、また再び頭を抱えて朝を迎える。それでもまだ、循環式の中でいつまでも大きくなれない拙い汗を流そうとしているうちは、この足元とあのお天道様の寿命とともに、何もないなりのカウントダウンに参加するくらいは許されている。
ああ、明日は今日とは異なるか。変わることに足がすくむか。それでもへばりつけない、投げ出せない。足元をロックするフラップに転び、軟らかな土に骨抜きにされ、ウダウダした後に忘れて再び先に進む。蒸し上がっている毎日に煮詰まり尽きたら、次の呼び水を求めてウロウロするしかない。それならば止まれない。ナメクジだろうとカタツムリだろうと、干涸らびてしまうまでは止まれない。変化におののく臆病者である限り、止まらせてすらもらえない。